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2007年01月23日
孤高の百姓
お昼、『松下農園』の松下さんが野菜の配達に来てくださったときに、『木の暮らし研究会』の現在の活動状況についてちょっとお話を振られたので少し話し込む。
「孤高の百姓」とあえて畏敬を込めて形容するに値する、そのこと以外のすべてを捨てて、頑なに、ある意味、究極の生き方を選択されているお方である。
が、年齢的なこともあってか、人に思いを伝えたい、伝わらない、伝える機会がないことに、少しもどかしさを覚えておられるように感じる。
ただその思いは、どれだけ高い意志や意識と、実際の行動を伴っていたとしても、孤高という、ある意味、自然の摂理を語りながら、自然のバランスを崩している状況が感じられる現状では、なかなかその声も届きにくいのではないかと感じている。
極端な喩えであるが、どれだけ木組み、手作り、ネジ釘使わない、国産材や自然素材とこだわろうが、山で木を伐採するのは、チェーンソーであるし、その木をふもとまで運ぶのに、ディーゼルエンジンで走るトラック、製材機は、原子力で発電された電気が動力源であり、またそれぞれの業務に関わる人々の暮らしに対する考え方、そもそも、樹というひとつの命をいただくことから始まっているということまで踏まえ、そこに関わる、そのすべてにまで意識を向けてこそのこだわりではないだろうか。
どれだけ己の砦を築こうが、そこから一歩出た社会に目を向けることなく、また、それをそんなものと背中を背けてしまっては、結局、己の営みも逆に背かれてしまうのではないだろうかと……。
妥協することと、協調することは、ともすれば同意に捉えられる場合があるが、これは、似て異なるのではないかとも思っている。
この孤高の百姓には、あえて、また世間や世俗というカオスに踏み込んで、そして、そこから、もはやそこに紛れ濁ることのないであろう、その想いや哲学を、我々若者や未来を生きる者達に指し示して欲しいと思うのは、自分のとんでもない思い違い、もしくは思い上がりだろうか……。
他人のことをどうこういえる己の立場ではないことを承知であえて……。今日はそんなとこ。
投稿者 KAKU : 2007年01月23日 23:59
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